「お殿様、外交官になる」 熊田忠雄著 2019年10月8日 吉澤有介

明治政府のサプライズ人事 祥伝社新書2017年12月刊

著者は福島県生まれ、早稲田大学からニッポン放送を経て独立、早くから海外に出て活躍した明治の群像に注目し「明治を作った密航者たち」などの著作や講演活動を行っています。

幕末、徳川幕府は欧米諸国と条約を結び、相手国から外交官が来日しましたが、我が国は先方に派遣していませんでした。明治新政府は、この変則的な外交関係を是正するため、外交使節派遣に向けて官制を整備し、明治3年にその骨格を定めました。それが特命全権公使、弁理公使、代理公使などの体制で、大使ができたのは日露戦争後のことでした。

しかし、明治初期の外交官には特別の資格はなく、ほとんどが維新に貢献した藩の出身者で、海外留学経験あるものが登用されました。明治3年の我が国初の海外駐在外交官は、イギリス・フランス・プロイセン兼任代理公使の鮫島尚信、アメリカ代理公使の森有礼と、いずれも旧薩摩藩士です。一応、彼らには語学力はあり、それなりの見識もありましたが、外交は全くの素人で、しかも20歳台の若輩でしたから、たいへんな苦労を重ねることになりました。鮫島は、ロンドン駐在を認められず、パリでイギリス人秘書に外交術を学びながら実務経験を積み、森も当時の国務長官に教えを請うたといいます。鮫島は後に、その苦い経験から後輩のために国際外交手引書をつくり、バイブルとして長く重用されました。

一方、明治政府は最重要国以外なら社交活動が中心とみて、全くの素人外交官を起用します。それが旧大名でした。佐賀藩の鍋島氏、徳島藩の蜂須賀氏、広島藩の浅野氏、大垣藩の戸田氏、岸和田藩の岡部氏らです。いずれも維新に功績あり、人物も有能で早くも欧米に留学する向学心の強いお殿様でした。欧州では、外交はもともと貴族の仕事でしたから、相手先も受け入れやすく、外交活動の費用を補うためにも、その豊かな私財に期待したのです。

著者は、彼らの事例を細かく追っています。鍋島侯は、15歳で家督を継ぎましたが、父閑叟の国際感覚を受けて、明治4年の廃藩置県に際し、即単身イギリス・オックスフォード大学で、経済学、文明史などを幅広く学び、欧州各国の事情も視察しました。佐賀の乱で一時帰国すると、妻胤子(公家の姫)を伴い、夫妻で再渡欧します。胤子はパリで洋装してフランス語を学び、社交界に華やかにデビューしました。7年後帰国すると、夫はイタリア公使を拝命します。ところが胤子は病死し、急遽後添いに栄子(これも公家の姫)を迎えてローマで結婚し、公使夫妻は日本文化の紹介に活躍しました。帰任後は鹿鳴館の花形となります。来日していたピエール・ロチも栄子を称えていました。戸田侯は17歳で岩倉具視の次女極子14歳と結婚し、すぐに単身でアメリカ・レンセラー工科大学の鉱山学科に留学します。新妻はこの間英語などのレッスンに励み、5年後帰国した夫とともに、鹿鳴館の常連メンバーとなります。極子の美貌は鹿鳴館随一でした。ある日、総理伊藤博文が極子に言い寄り、極子が裸足で逃げるというスキャンダルが起きました。真相は不明ですが、間もなく戸田侯は、異例の昇格でオーストリア公使に任命されました。夫妻は明治20年に赴任し、独語、仏語も身につけて、社交界の華となりました。極子の琴はブラームスを魅了したそうです。夫は帰国後、宮内省式部長官に栄進しています。明治外交の興味深い一面でした。「了」

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